板倉勝重の血筋と京都所司代の系譜

― 二条城の落成を見守り、備中松山へと至る武門の軌跡 ―

我が家系は、徳川家康公にその卓越した才を認められ、幕政の要職を歴任した名門・板倉家の一画にござる。江戸初期、激動の京都において公家・朝廷の監視、および二条城の管理や京都の治安維持を一手に担った「初代京都所司代」板倉勝重公を源流とし、その血脈は江戸中期、備中松山城(現在の岡山県高梁市)の藩主となった板倉勝澄公へと脈々と受け継がれてまいった。名門の誇りと歴史の真実を、ここにしかと記さん。

シュウマイ奉行の家系図
1545年

板倉勝重公、三河国に生誕(僧籍から武道へ)

初代京都所司代となる板倉勝重(源四郎)が誕生。若き頃は浄土真宗の僧侶として市井にあったが、永禄4年(1561年)に父と兄が深溝松平家との戦いで戦死したため、徳川家康公の命により還俗。武門板倉家の家督を相続し、家康公の信任厚き直臣となった。

1601年

初代 京都所司代に就任(朝廷監視と治安の長)

関ヶ原の戦いの翌年、家康公より京都の町奉行(京都町総奉行)に任ぜられ、これが事実上の「初代 京都所司代」の創設となった。公家や朝廷の監視、西国大名の動向を睨む極めて重要な要職であり、勝重公の公正中立な裁判(板倉政要)は京都の民衆からも深く賞賛された。

1603年

二条城落成・将軍宣下を見守る

徳川家康公の京都における宿館・拠点として「二条城」が落成。京都所司代たる勝重公は、この二条城の管理役としても中核を担う。同年、家康公が二条城より参内し、征夷大将軍の宣下を受けた歴史的大礼の治安維持を完全に全うした。

京都二条城 大手門
1620年

長男・板倉重宗公へ京都所司代を継承

勝重公は20年近くにわたり京都の治安を守り抜き、その職を長男である板倉重宗公(第2代京都所司代)へと正式に継承。重宗公もまた名高き名奉行として「板倉の家風」をさらに高め、幕府創設期の基礎を磐石なものとした。勝重公は寛永元年(1624年)に京都にて逝去。

1744年

板倉勝澄公、備中松山藩の「初代藩主」へ

時代は下り江戸中期。勝重公の直系・板倉周防守家の当主であった板倉勝澄公が、伊勢亀山藩より備中国松山(現在の岡山県高梁市)へと国替えを命ぜられる。これにより、日本唯一の山城天守が残る名城「備中松山城」を居城とし、5万石の備中松山藩の初代藩主(板倉家初代)となったのである。

雲海に浮かぶ備中松山城 備中松山城 天守
維新〜現代

伝統の技、そして京都伏見の現代の奉行へ

徳川幕府を支え続けた板倉家は、幕末の名君として名高い板倉勝静公(老中首座)の代に明治維新を迎える。そして現代。初代京都所司代・板倉勝重公から数えて11代後、備中松山城主・板倉勝澄公から数えて8代後の血筋として、伝統と目利きのDNAを受け継ぎ、現代の京都伏見の地にて「しゅうまい奉行」として新たな命の技を紡いでござる。